前回は「言語がその人の思考や世界観を支配している」というウォーフの仮説についてお話しましたが、今回は彼の仮説が出た後に展開された様々な議論について話したいと思います。
その議論の主な理由は、2つです。
① 実は物的証拠がなく、ただネイティブ・アメリカンの言語と英語の差(ネイティブアメリカンの言語が英語と比べて欠けていること)を
彼らは理解できないとウォーフ氏が思い込んだだけだから
② ある言語である概念を直接表す言葉がないとしても、話者はその概念自体を把握できないわけではないから。
さて、ウォーフ氏は完全に思い違いをしたのでしょうか?
わたくしの意見ですが、「焦点」の問題だと思います。
例えば、日本語では「ご近所さんとおしゃべりしてきた」と言ったら、ご近所さんは女性だろうが男性だろうが別に関係なく、表現したいのは「近くに住んでいる人」と話したということです。ですが、例えば文法が女性・男性名詞で左右されているフランス語では、その人の性を言わないと文章になりません。つまり、フランス語では、日本語や英語とは違って、性別に焦点をつけなければ文章が成り立たないということです。とはいえ、日本語ではご近所さんの性という概念を把握できていないわけではないでしょう。
なので、ウォーフ氏の研究の対象になったネイティブ・アメリカンも時間の流れが「把握」できないわけではなく、ただ「焦点をあてていないだけ」だったのかもしれません。
ウォーフ氏のように、世の中と異なる視点で考えることで、新たな考えや見方につながるのかもしれませんね。
私は仕事柄、日々言語に触れるのですが、常にアンテナを高く張り取り組んでいきたいと思っています。