中国風メイクは、日本で徐々に人気を集めています。
日本風メイクは肌の透明感と親近感を重視し、韓国風メイクは肌のしっとり感と艶を重視します。
それに対し、中国では「梅、蘭、竹、菊」などをモチーフとした高い気品と気質を取り入れようとする傾向が、そのメイクから読み取ることができます。
現在、日本のインターネットで流行しているおおらかな装いを感じさせる濃い目の中国風メイクは、桃花メイクとも呼ばれていて、2017年ごろに中国国内で流行し始めました。桃花メイクは暖色系を基調とし、アジア人の肌色に適したメイクの一つです。唇、目じり、眉、鼻の輪郭を明確にすることによって、アジア女性の特有の顔立ちをよりはっきりとさせます。
このようなメイクに似たピンク系のピーチメイクやオレンジ系のカラメルメイクなどもあります。
長い中国の歴史を飾る各王朝では、異民族との融合が盛んに行われ、様々なスタイルのメイクも誕生してきました。3000年前の殷王朝の時代には美意識が芽生え、女性が化粧をする文化も現れましたが、当時はまだ白粉と眉墨を付ける程度でした。
秦王朝の時代には、一部の貴族の間で「紅粧翠眉」(ほお紅、口紅、黒眉)と呼ばれる濃いメイクが流行しました。
前漢と後漢の時代には、異民族との融合とシルクロードの構築により、技術や美術も大きく発展しました。この時代にはそれまで主流であった白粉と眉墨留以外の化粧品も多く生まれました。
激動の時代であった魏晋南北朝時代には、各民族の衝突と融合がさらに進み、急激な王朝の変化と共に多様性のある美意識が生まれました。さらに、爽やかさと淑やかさを重視した文化を持った東晋王朝では、男性も化粧を行っていました。これは中国の歴史の中でも非常に稀な事例だと言えます。
新しいものを広く取り入れる包容力を持った唐王朝に入ると、化粧はそれまでの伝統やしきたりに拘らず、より大胆なものへと変わっていきました。このような変化は中央アジア地域の異文化、異民族の影響も受けたと考えられます。
ファッションの流行は繰り返すと言われることがあります。
華やかさを重視した唐王朝の次の宋王朝では、シンプルで上品なメイクが再度流行するようになります。ふくよかなスタイルが好まれた唐王朝とは違い、宋王朝は細身が美しいとされる時代でした。この傾向は宋王朝の芸術品にも表れています。
元王朝の時代には、中原へのモンゴル族の侵入と同時に、アラブの薔薇水などの異民族の化粧品も持ち込まれるようになりました。また、高麗国(今の朝鮮半島)にほお紅を輸出していた時代でもありました。
明・清時代には化粧は上流階級だけでなく、一般層にも普及するようになり、桃花メイクや酒酔いメイクが生まれたのも明の時代です。
現在、中国の美容系ブロガーたちは、日本風、韓国風、欧米風など各国のメイクを読者に紹介しています。美意識の多様化の背景には必ず異文化交流があり、今後も異文化の吸収や自国の文化の発信が継続していくことは間違いありません。